2011年3月11日の東日本大震災に連鎖して、東京電力福島第一原子力発電所が重篤な事故を起こしました。
私たちは震災翌日の3月12日、原発の最初の水素爆発の前に福島県いわき市最北端の戸渡集落から脱出し、その後は避難生活を続けながら営業を再開するために移住先を探して各地を巡りました。
そして震災後8ヶ月目の2011年11月、ようやく長野県諏訪郡の集落に農地と小さな中古住宅と出会い、12月に入って売買契約となりました。そこでこの物件の近くに借りていた家から現場に通い、工房の建設準備や農地の開墾などみれっとファーム再開の準備を進めました。
福島県戸渡(とわだ)集落からの脱出
3.11の大震災の時、いわき市の市街地は断水、停電、通信機能が不通となり、ことに湾岸部は津波で大変な被害が出ていました。みれっとファームがあった阿武隈高地の奥山の戸渡集落では、電話がややかかりにくくなったものの、テレビが棚から落ち、本や書類、食器などが散乱したくらいで、生活のインフラには支障がありませんでした。そこでtwitterで津波に襲われた友人に戸渡に避難するように連絡したりしていましたが、原発に何らかの支障が出ることは予想され、実際に原発から3キロ圏内に避難勧告が出たとき、同じ戸渡集落に住む「マクロビアン」の橋本宙八さんとも相談し戸渡脱出を決めたのでした。
まもなく避難指示が10キロ圏内に拡大したときは、富岡町から川内村に避難する車で川内富岡線は大渋滞しており、私たちは国道399号線からいわき市の市街地を抜けるルートで実家のある那須町を目指しました。
この時は「一週間くらいで帰れるだろう」という気持ちと、「もう二度と戻れない」という考えが頭の中で交錯していたことが、鮮明に記憶に残っています。
そして避難生活
いわきを出て取り敢えず栃木県那須町の実家に避難したのですが、那須町では震災後間もなく、福島県からの避難者の受け入れ体勢ができ、避難所になった体育館には様々な情報が掲示されていました。私たちはこの情報から、見ず知らずの方から小さな別荘を無償で使わせていただくことになりました。この時の安堵感は本当に忘れがたいものです。
その後、ガイガーカウンターを入手して戸渡を訪れました。4月に入って間もない頃です。
同年の4月11日には大きな余震もあり、一度安定し始めていたいわき市内はまた断水や大きな地盤沈下が起き、若い人たちが命をなくしました。
桂子はその後、岩手から福島にかけて湾岸部の旅をしました。初日に訪れた陸前高田の一本松に到着したころ、いみじくも、いわき市内の屋内退避区域(戸渡など)の指定が解除されました。
5月半ばになってから、桂子は那須町から低線量のいわき市街地にアパートを借りて、時折、みれっとファームの工房や自宅、分校舎などを見廻り、できる範囲での整理などをしていました。同時に洋介が主体になって、関東甲信地方、福島県会津地方などに移住先を求めての旅を繰り返しました。
信州 小六(ころく)集落との出会い
避難して間もなくから主に関東地方に移住先を探していましたが、夏頃から甲信地方と福島県会津地方を訪ねて歩きました。
会津はもとより、長野の友人や取引先様からも声を掛けていただきました。山岳部出身の洋介にとっても、名古屋生まれの桂子にとっても長野は馴染みのある地域でした。
それでも、なかなか有機農業のできる農地とすぐ住める建物ある賃貸物件は見つかりませんでした。次男の拓未はみれっとファームを手伝うため横浜の仕事を退職して待機しており、営業再開の目標としていた9月に入ると、さすがに私たちは焦り出しました。
そんな折り、北杜市(山梨県)と富士見町(長野県諏訪郡)の農業委員から「物件あり」との連絡を受け、様々な状況から、10月には個人のご厚意で富士見町に無償で家を貸していただき、そこに仮住まいをして、少し離れた小六集落の農地と家付きの土地を安く譲っていただけるよう交渉を続けました。
11月になってやっと仮契約にしていただき、長年耕作放棄されていた農地が入手できることになりました。
そして12月になって正式に物件の引き渡しが完了し、農地にも手を入れながら、みれっとファームの工房にするため家の隣にあった空き倉庫を借りて改修を始め、機材屋さんとの調整などをしました。